梅花 森川光郎 2019年3月号
紅梅を戻りて仰ぐ涙かな
春雷に一句が点る朝寝かな
空深く寒林の数ばら撒かれ
木立大きく再びうねる寒い山
色手帳冬の没日の中ひらく
濡れながら梅林に道彷徨す
山少しぬれて冷たき春の朝
桔槹2019年3月号 森川光郎選桔槹集抄 抜粋
馬駆けてより凍土の解けはじむ 髙市 宏
この椅子を愛することも枯野かな 岩谷 暁子
ものの芽に弾む日うゐの奥山 益永 涼子
もうすでに猫にとらはれ老ひの春 金子 秀子
青空へ裸木の舞ふ形あり 永瀬 十悟
雪景色いちまいの紙ひろげられ 江藤 文子
北風吹けばもののかたちに凍りける 新庄 八重
北青空どこにもつかまる棒がない 遠藤 慶奈
歳時記に松明あかし燃えあがる 黒沢 正行
研ぎあげし肉切りを置く冬の月 大河原真青
2019年3月号 桔槹集をよむ 森川光郎 より抜粋
馬駆けてより凍土の解けはじむ 髙市 宏
さてこの句、「馬駆けてより」は凍解までの動きを、馬術部の馬の動きを望見してよりのスケッチに託したもの、といえようか。馬の躍動を、「凍土の解けはじむ」に載せて一気に詠んだ。凍解と疾駆する馬のかたちは、一句の内に解け込み易いだろうが、もうひとつ表記したいのが、馬の蹄の音。走り来たり、走り去る馬が放つ気息と、地を蹴る音と響きは、見逃すことの出来ぬモチーフだろう。「凍土の解けはじむ」は、「馬駆けてより」に連動して瑕瑾がない。
この椅子を愛することも枯野かな 岩谷 暁子
椅子のかたちや触感などの手さわりを通した印象を詠んでいる。まだ完璧な表現ではないかも知れぬが、妙に惹き付ける魅力をたくわえた一句と思う。昔の人、ずーっとむかしの人が、海をどこまでも辿って行けば、断崖になっていて、そこから奈落に落ちてしまう、と恐怖の念を抱いて、海を見ていたという。「この椅子」のこの句をよんでそんな昔の海人のことを思った。おそらく作者は、これで完結したとは思っていない。この椅子にいて、遠い枯野に視線を走らせるとき、次の言葉がなくて、この句を切り上げたのだと思った。完結の無いもどかしさがこの句の魅力なのだと思う。
研ぎあげし肉切りを置く冬の月 大河原真青
肉切りは肉切り包丁のこと。肉切り包丁と書かずに肉切りと書く。研ぎあげしと書いて「研ぎあぐ包丁」とは書かぬ。春の月と書かずに冬の月と書く。言葉を鋭利な姿に統一することによって、己の言語圏内に姿をかえてゆく。それも表現のテクニックではあろうけれど、読者からすると、物足らないものが残る。表現のパターンが決まった姿を見ると、読者の不満が残る。その反対の表現を見たいとも思うものである。
峡に老い平成末の年の酒 小山 幸衛
山峡に老いてゆく我を客観視している。「平成末の年の酒」がその点を強調しているようである。しかし、毎月作品を読んでいる吾人から見ると視点を老いゆく環境に置くことに悔いが残る。あり余る自然環境の中にいて、その自然の環境を詠んでほしいと思うのである。自然を詠んでゆくことのむずかしさ、その自然の中で己の作句環境を、どのように整えてゆくかは、極めて困難なことではあろうが、ひとたび作句の道をこころざしたのであるが故に、このように思うのである。
短日や納屋に取り込む藁の嵩 安藤スミ子
己の農にいそしむ姿を、いつも正面から詠んで気分のいい句を見せてくれる。農が生活であり、そこから逃れられぬとすれば、やはり農に励み、農を詠んでゆくべきだろう。むしろそれが作句の本道であることを知るべきだと思う。そこから出発してゆく俳句が本道なのである。さてこの句、「納屋に取り込む藁の嵩」が迫ってくる。誰も詠めぬ、農道の俳句である。かえり見ることは何も無い。これでいいし、これを詠んでゆくべきだろう。